ITアーキテクトのひとりごと
第59回「3.11の長期記憶」

数百年に一度の出来事だと言われている「3.11東日本大震災」。100年、200年前の出来事も意外と定かではないが、ITが発達した現代に発生した巨大地震はどのように記憶されるのか。

地震発生直後からリアルタイムでテレビに映し出された凄まじい映像はあまりのことであっけにとられるばかりだった。1995年に発生した阪神・淡路大震災の時には、一体何が起こったのかしばらくわからなかったのとは大違いだ。

15、6年の間に発達したITシステムはリアルタイムを実現した。2001年の9.11テロ事件報道のリアルタイム性にも驚いたが、さらに磨きがかかった。各所に配置された監視カメラ、携帯カメラ、デジカメと通信インフラが有機的につながったのだ。

映像そのもののインパクトは大きいが、その映像に付帯すべき情報が大事だ。誰が、いつ、どこで、そこに写っているのは誰だ。そこに写っていない周りの状況も含めて記録すべき情報は多い。

あらゆる公的、私的なメディアが記録した巨大な映像・音声アーカイブとWebや新聞、雑誌に記録された文字情報は、とりあえずは、どこかにアーカイブされている。だが、10年、20年、50年、そして100年経ったときにそのアーカイブは取り出し可能な状況になっているだろうか。

新聞社や報道機関のような私的な企業が50年後、100年後にも同じように継続しているなんて信じられない。きっといつか、持て余したアーカイブが誰も知らない間に棄てられてしまうのだろう。政府レベルのアーカイブは大丈夫だろうが、自治体レベルのアーカイブは予算の裏付けが無くなり、世の中の記憶が薄れてきたときに静かに消えるのかも知れない。

Googleのクラウドにしまっておけば消えないだろう、という楽観的な対応もあるようだが、これでも問題が無いと思われる時間の単位は、自分の人生の残り寿命、いやいや、自分の気持ちが何となく納得できるくらいの短い時間だ。

何もかも、あらゆる記録を永久に保管する必要があるのか。そんな疑問の一方で、デジタル化された記録は、しっかりとした方法でコピーされ続ければ、全く劣化することなく永遠に保存される。また、そのコストも逓減し続けるので、未来のアーカイブの巨大さは類を見ないものになる。

急速に巨大化するビットには重さが無いのでどこまでも大きくなり続ける。アーカイブを管理するライブラリアンが理解するだけで一生を費やすような巨大なアーカイブが出来上がってしまう。こんな想像をすると、何千人、何万人のライブラリアンが取り組んでも理解し尽くせない巨大なアーカイブができてしまったときが人類の終わりのような気がしてきた。

それとも思考機械のような人間の脳の代替品が登場して問題を解決してくれるのか。

JDSF データ・マネジメント・ソリューション部会
株式会社エクサ 恋塚 正隆
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